思考実験

「……朝霧」  灰色の雲に厚く覆われた空。学校の屋上から見えるそれが、何故かその日は遠く見えた。 「何?」  少女の返事と、読みかけの文庫本の閉じられる音が、やけに大きく聞こえる。  何も気負うことじゃない。さらっと言えばいい。  深く息をついた後、姫宮は言葉を吐いた。 「死にたいと思ったことはあるか?」  興味が無いような、もしくはそれがどうしようもない問題であるような、無気力な声で。  もしかしたら、この話題を持ち出すこと自体が目的で、朝霧が無言のままでも大して問題は無く、彼も半ば彼女は答えないだろうと高をくくっていたのかもしれない。  あるいは本当にこの話題に興味など無く、ただ言ってみただけというようなものだったのか、いずれにせよ、朝霧がはっきりと答えたことに対して彼は少し驚いた表情を見せた。  彼女の言葉は簡潔だった。 「うん。今までに、何度も」  言葉の割に、そっけない言い方で。 「そうか……」  姫宮がそう呟いた声は心做しか小さかった。  彼は空を見上げながら自嘲するように言った。 「俺は、人は誰も死にたいなんて思わないと思ってる」 「つまり、私は、間違っていると?」  少年は無言で頷く。朝霧は、それに静かに反論した。 「別に、誰がどう思っていようと関係ないけど、私は、その考えに同意できない」  少なくとも、他人の言葉によって突然考えを改める程、私は弱く無い。  普段無口で無表情な朝霧の今までに無い強い主張に、姫宮は思わず彼女の顔を凝視したが、その色白な顔からは生気すら欠落しているのではないかと疑う程に何も感じ取れなかった。  少女は言葉を続ける。 「人が、自己≠持っている以上、常に一定の精神状態にあり続けることは不可能。ポジティブな思考とネガティブな思考を持ち合わせているから。誰しもが、リビドーとデストルドーの狭間に生きていて、鬱と躁の繰り返しの中で精神の均衡を保っている。だから、死にたい≠ニいう衝動は全ての人間が感じて当然。私も例外ではない」 「…………」 「これはあくまで私自身の考え。正しいわけではない。あなたが私の言葉をどう思おうと勝手」  朝霧は最後まで無表情で、その言葉の真意は分からなかったが、         姫宮には彼女の自分に対する非難のように感じられた。 「じゃあ、俺の言葉も、あくまで俺の″lえ方だ。聞き流してかまわない」  他人に非難されたくないのなら黙っていればいい。ましてや朝霧と姫宮の関係はそれほど深いわけではない。偶々同じように暇を持て余していて、偶々同じようにこの屋上で過ごすことを好む、ただそれだけであり、互いの思考を論じる相手としては不適当に思えた。だが、いや、だからこそ、姫宮は彼女にこの話を振ったのだろう。自分でもよく分からない物事を、自分とよく似た、自分ではない人間に。 「俺も最初は、アンタと同じように考えていた。別にアンタみたいに突き詰めて言語化しようとか思わなかったから、漠然とした概念みたいな感じだったけど」 彼はフェンスに寄りかかり、少し暗い表情を浮かべた。 「でも俺は、自分を貫くには弱すぎたんだと思う」 考えれば考えるほど、矛盾ばかりが思考を埋めていった、あの恐怖を少年は思い出す。 「結局俺は、死にたい≠ニいう衝動そのものを否定するしかなかった」  ハハッ、姫宮は乾いた笑いを漏らした。かつてこのくだらない思考実験に悩まされた、そして今それを不幸自慢のように語ろうとしている自分自身に対する、嘲笑。 「強い疎外感や羞恥心なんかを感じたとき、人は死を望む。同時に鬱状態になって、何をする気力も失う。何もしたくないのに死にたい≠ニいう欲望を持つことは矛盾だ。つまり……」  散々回りくどい事言ってきたけど、俺はこの言葉を誰かに言ってみたかっただけなんだと思う。 「つまり本当は、人は生きていたくない≠ニ感じるのであって、生と死という別々の概念をを一つの概念の両極のように考えるからそれを死にたい≠ニいう衝動だと思い込むんじゃないかな」  言いたかっただけ? 違う。俺はただ、誰かに同意してもらいたかったんだ。  朝霧は軽蔑するでも同情するでもなく、相変わらず無表情のまま姫宮を見つめていた。 「そう…………」  だから彼女が何も反応を示さないことが一番怖かった。 「でも、これだけは言わせて。一つだけ、あなたは間違えている。あなたは、生と死はある一つの概念の両極では無いと言った。でも、あなたの思考では、生への衝動と死への衝動は両立できない。つまり、一つの概念として存在している結果となる」  朝霧は淡々と語る。 「私も、生と死を別の概念とする思考には同意する。ただし、その場合人はこの二つの衝動を同時に感じることが可能だと思う。鬱……これは生からも死からも遠い状態。結果的に何もしたくない、無気力。ではその逆はどうなるのか? 生きたい≠ニいう衝動と死にたい≠ニいう衝動を同時に感じる事はあり得るのか? 無い、と言う人もいるかもしれないが、私は感じたことがある。そのときの状態を一言で言えば、何がしたいのか分からない状態。あなたは、感じたことが無い?」 「…………」  姫宮は何も言えなかった。自分の矛盾を乗り越えるための哲学を、更に否定されたことに対する絶望感が彼を飲み込む。  彼は俯いたまま、暫く黙っていた。  今の姫宮が何を考えているのか、朝霧には分からなかったし、興味も無かったが、彼女は無言の少年を表情一つ変えず見つめ続けた。 永遠とも思える沈黙。  やがて、彼は顔を上げ、言った。 「あー、やっと分かった。多分、俺が間違ってる」  感情の感じ取れない、投げやりな声だった。 「生とか死とかいうものは簡単に答えが出るものじゃないし、ましてや精神学に詳しいわけでもない俺がとやかく言うのはおこがましいって話だ。それなのに俺は、自分が正しいと思いたいからこれを考え続け、矛盾を超えようとして矛盾を生み、勝手に袋小路に迷いこんで勝手に絶望してた」  姫宮は朝霧の方へ視線を向けた。その瞳は、何処か朝霧のそれと似た光を持っていた。 「正しい答えなんて何処にもない。だから俺は、この問題を考え続ける限り自分を否定し続けなくちゃいけない」 「言い訳じみてる」  朝霧がポツリと零す。 「自分を否定して生きていくのは、悲しくない?」 「悲しいかもしれない。でも、俺はアンタみたいに強くないから、誰かに認めてもらいたいから、認めてもらえないならそれを否定するしかない。その自分を超えて、俺は生きていきたい」  それが、生と死の思考実験の末にたどり着いた、彼なりの答え。始めの問いからは見当違いな結論だし、彼にもその自覚はあった。  だから…… 「だから、最後に言わせてもらうよ。やっぱり俺はあんたは間違ってると思う」  少年は僅かに笑みを浮かべて、言った。 「本当に死にたいと思ったら、そいつはその場ですぐ命を絶つだろ? 少なくとも俺はそうする。一瞬でも躊躇うのなら、もう少し足掻いてみるさ」  じゃあな、と言い残し、彼は屋上を後にした。  今にも雨の降り出しそうな空の下、無表情の少女が一人、取り残されていた。  彼女は呟く。誰にとも無く。 「自分自身を肯定できないのに、何を信じて生きていけるの……」  ポツリ、と雨粒が、コンクリートの地面に黒いしみを落とす。 「答えの無い問いなんて無い。全ての答えを見つけたとき、人は死を許されるのだと思う。本当に死を願ったのだとしても、答えの出ないうちは死ぬ事を許されはしない」  それはまるで呪いだ。知恵の果実を食べてしまって人間に対して、死ぬまで考え続けろとでも言うかのような。  雨が徐々に激しさを増す中、朝霧は空を見上げた。 「願わくば、私は答えを導き出し、許されて死んでいきたい」  そのために人は生きるのだと思う。