もしも願いが叶うなら

 あと1度だけだなんて、叶わない望みを抱きながら私は今日も穢れていく。  家が没落してからもうどれくらい経っただろう。  燃えていく家から逃げるように、宛てもなく走って辿りついたのは貴方のいる都。  あの僅かな時間を過ごした私を貴方は覚えてくれていますか?  あの時に交わした約束を、貴方は覚えてくれているでしょうか……?  この店の女将さんに拾われて、この島原で生きるようになってから多くの時間が過ぎた。  12歳でこの世界に踏み込まざるを得なかった私は禿として2年を過ごし、 武家の出だった事も幸いしたのか新造となって接客する際にも知識に困ることはなかった。  ただ、あの方に嫁ぐために学んだ知識をこんな風に使っていることを亡き両親が知ったら悲しむだろう。  この街に辿り着いた時、あの方に会えると思った。  しかし、私は墜ちた武家の人間。あの方の所へ行けるわけもなかった。  でも、この街で生きてさえいればいつか会える日が来るかもしれない。遊郭に拾われたあの時それだけが私の生きる糧だった。 「華月姐さん、そろそろ店開けるみたいですよ」 「もう、そんな時間?もう少しで終わるから待っていてちょうだい」  気付けば、私も禿(かむろ)を引き連れて歩く「太夫」という位を持つ遊女。  髪を纏め、化粧を施し、豪奢な着物で着飾って「華月太夫」という名の笑顔を貼り付ける。  舞も酌も、あの頃より上手くなった。  でも、私を買うのは金で女を買う浪人。  こんなただの人形のような女を買って何が楽しいのだろう。  最初は気持ちが悪くて吐き気がした。  この場所でしか生きられない。そう思うだけで芝居の一つや二ついくらでもできた。  そんな私を、男共は綺麗だの美しいだのそんな言葉を並べてくる。  馬鹿みたいだ。  そんな言葉で喜ぶやつがこの世界にいるとでも思っているのか。  何人の男に媚びを売り、相手にされてきたのかもわからない、何も感じなくなった低俗な人間の何処にそんな言葉が当てはまるわけがない。 「姐さん、女将さんが呼んではりますよ?待ってもらいますか?」 「大丈夫や、今いくわ」  何度、こんなことを考えただろう。  この襖を開けたら私は「華月太夫」であって他の誰でもない。  今の地位に居る私が自分を愚弄することは、この店を愚弄することになる。  そんなこと、あっちゃいけないはずなのに、まだ私はあの頃に戻りたいと思っている。  そんな資格はもう持っていないのに。 「おそなってすんまへん、女将はん。」 「本当に遅かったわね。……まぁ、いいだろう。華月。今日の客は初見だが、上客だ。神楽様と言ってここらじゃ有名な武家の跡取り。常連になってくれれば、こちらも安泰だ。くれぐれも失礼のないように…あんたにそんな気遣いはいらないか。」  大物の来客。それだけでも店は大騒ぎである。 「心配せんでも、私はいつも通り自分のお役目するだけですわ」  女将にいつものように貼り付けた笑顔を返し、部屋を後にする。  私の心は揺れていた。  神楽……。あの方と同じ名字。今更になってどうして。  もし、もしも本当にあの方だとしたら……喜びと悲しみが一気に押し寄せてきた。  やっと、逢えるのかもしれない。このくらいの年なら遊郭に来たって可笑しくない。  でも、きっと、気付いてはくれないだろう。  あの頃とは正反対の醜く着飾った私を。 「姐さん、どないしたんどす?顔色が…」  部屋に戻ると禿の由希が心配そうに待っていた。  この子もいつか、私のようになるのだろうか。 「お由希…心配せんでええよ。……女将はんが久々の上客や―いうからちょっと緊張してるだけやわ」 「でも・・・「なぁ…変なこと聞いてもえぇ?」 「は、はい?」 「今、ここにいること後悔したことある?」 「後悔……してないと言えば嘘になるとは思います。でも、これが私の選んだことですから」  この言葉に後ろめたさは感じられなかった。  しっかりした子だ。こんな風に考えられるような生き方ができたら私もよかったのに。 「お由希。いつか人を本気で好きになったら、私みたいに諦めたらあかんよ?環境に逆らってでも体裁も全部投げ捨てて自分が後悔しないように追いかけて伝えな…ね。」  どうしてこんなことを言ったのだろう。  私は…そうか、後悔しているのか。あの時会いに行くことすらを諦めたことを。 「…姐さんは諦めたんですか?」 「そうやねぇ、今から諦めにいくようなもんやね。」 「姐さんは…凛華姐さんはそれでいいんですか?」 「……!」  もう2度と聞くことはないと思っていたのに、久しぶりに聞く本当の名前。  それは私の気持ちを揺るがすには十分だった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「お待たせいたしました。……華月どす。神楽はん、今夜は楽しんでいっておくれやす」  お得意様しか入れない部屋に、初見のお客。  いつもより、少し下した髪の下に笑顔を張り付けた顔をあげると、そこにはずっと待っていたあの人がいた。  心臓の音が跳ね上がるのがわかった。でも、買われたのは私ではなく華月だから。  こんなところで、こんな風に女を売っていると知られたくない。  顔色を変えずに私は華月を演じきろうといつも通りにこなしていった。 「神楽はんは、今日はどうしてこんな場所にきはったんですか?」 「…父上に、偶にはこのようなところに行ってみてはと……おいて行かれた。」 「そうやったんですか。どおりで、緊張してはると思いましたわ」 「このようなところ、縁はないはずだったんだがな…」 「そんな、寂しいこと言わんと折角やし、楽しんでくださいな」  話していると、私の浮かべる表情は作ったものじゃなく自然に笑うようになっていた。  神楽様は何も変わってはいなかった。  あの時よりも背も高くなって、声も低くなられていたけれど、そこにいたのは紛れもなくあの方。  人と話すのが苦手なところは相変わらずのようで、ここに来て初めて静かに時間は過ぎていった。 ――――――――――もしも、覚えているのならお願い、気付いて。貴方の前にいるのは凛華です。  そう言ってしまいそうな口を必死に抑え空いた酒瓶を片付けながら私は落ちる髪を耳にかけた。  すると、神楽様は傾けていた盃を放り、髪にやる私の手を止めた。 「……華月、よく顔を見せてくれないか……?」 「いきなりどうしはったんですか?そんなよう見ても面白うないですよ」  そうはいいながらも、言われたら見せないわけにもいかず仕方なく前髪を横に流す。 「ほら、こう見ると遊女言うても、普通や…ろ…!?」  言いきる前に目の前は神楽様の下ろした長い黒い髪で遮られていた。 「…凛華…こんなところに居たんだな…やっとみつけた…」 「神楽…様…?」  いきなりのことに呆気にとられていると神楽様は寂しそうな声で耳元で囁いた。 「もう、あの時のように優一とは呼んでくれないのか…?」  止まらない。折角嘘をついていようと思ったのに。  そうやって貴方は簡単に私を溶かして行く。貼り付けた笑顔も、諦めようとしていた思いも何もかも。 「優…一様」  気付くと頬に涙が伝っていた。もう一度、名前を呼べる日が来るなんて思ってもみなかったから。  私の背中に回る優一様の細い腕にも痛いくらい力が入るのがわかった。 「その声を聞いた時から懐かしい気はしていたんだ…こんな近くにいたなんて」 「私のことなど…遠に忘れていると思っておりました。「忘れた日など一日としてなかった!」 「連絡が途絶えたあの日から、凛華だけでもどこかで生きていると信じて…縁がないというのは、凛華が生きていると思っていたからだ」 「でも、私は……汚い女…貴方に、そんな綺麗な貴方に触れる資格などありはしません」  回った腕を解き、必死に涙を止め笑顔を浮かべた。  そう、私は貴方だけの色にはもう染まれない…こんなに穢れてしまったから。  気付いてもらえた、それだけで私は十分だから。  どうしてだろう、まともに顔を見ることができない。さっきまであんなに簡単なことだったのに。 「あの約束を…忘れたというのか?『どんなことがあってもお前を愛し続ける』そうあの時誓っただろう」 「…っ!でも…それは私が、普通の女だったから…」 「そうやって泣ける凛華が汚いわけがない。俺は華月じゃない、凛華が欲しいんだ」  そう言って私の頬に触れた手は、誰よりも優しく誰よりも愛おしかった。  何も感じなくなっていたはずなのに、この僅かな時間で、幾度となく聞いた言葉だったのに、貴方の声と言うだけで全部が元に戻ってしまったようだ。  あと一度で良い、華月としてじゃなく、凛華として外で貴方と生きたい。  触れられた手を震える手で握った。もう二度と離れないように。 ――――――――――――もしも、願いが叶うなら、もう一度だけ貴方を愛しても良いですか?