桑畑

お題「飛行機雲」「くもり」「アゲハチョウ」  私の中学校のそばに桑畑があった。その中にある、人がやっと通れるくらいの細道が私のお気に入りの道だった。友達は毛虫が出るからって嫌がるが、私は嫌なことがあったとき、悲しい気持ちになったときはいつもその道に逃げていた。この桑畑の道の中で嫌なことが吹っ飛んでしまう感じがしたのだ。  ある曇り空の日、友達にいじめられて私はトボトボと歩きながら桑畑の道にきた。しかし、いつもは人がいない桑畑の道に、今日は先客がいた。その先客である私よりも年下くらいの少年は、空を指さすように右手の人差し指を立てて上に挙げていた。私は少年が立ち去るまでずっと待っていたが、なかなか動かなかった。 「……ねぇっ」 私は思い切って声をかけた。少年は私に気がついたらしいが、上に挙げた人差し指を見続けた。 「何……してるの?」  少年は人差し指をじーっと見つめながら、ころころと私をくすぐるような声で言った。 「ずーっと指を挙げていれば、いつかはチョウが僕の人差し指の上に止まりにくるんじゃないかなと思って」 「そばにチョウなんて飛んでいないから、止まるわけないよ」  私はクスクスと笑って少年をからかった。それでも少年の右手は人差し指をピンと伸ばして上に挙げたままだった。 「……ねぇっ」  私はまた声をかけた。 「手……疲れないの?」  しかし、少年は私の言葉を無視してきゃっきゃとはしゃぎはじめた。 「空見てっ! 雲が僕のところに集まってくるよ」  私は空を見上げたが、曇り空のままだった。そんな私を無視して、少年は軽く飛び跳ねながら雲をかき回すように右手をグルグル回して、空中に大きな円を描いた。  しばらくすると、少年は跳びはめるのをやめて右手で大きく「一」と書くような形で人差し指を左から右へ移動させた。そして、満足げににこにこと笑い、ずっと挙げていた右手を下ろし、私のほうを向いた。 「今日は大成功だ!」  少年は明るく叫んだ。 「だって、君が来たんだもの。僕の指に人が止まるのは初めてだよ」  少年はそう言った後、私に大きく手を振りながら桑畑の中に消えていってしまった。私はその後も桑畑の道の中にいたが、急に空が明るくなった感じがしたので、私は空を見上げた。 「うわーっ!」  私は思わず声を上げた。さっきまで曇っていた空が雲一つない空に変わっていた。あの少年が本当に雲を集めてしまったようであった。私の頭上にただ一つ、飛行機雲だけが白い線をつくっていた。しかし、私はその飛行機雲は少年が最後に描いたものとしか思えなかった。  その後、私と友達の関係は良くなったが、私はいい気分のときでも桑畑へ行き続けた。あの不思議な少年に会うことはなかったが、それでも私は桑畑に行って空を見上げた。  次に少年に会ったのは、卒業式前日だった。少年は道ばたに座り込んで空を眺めていた。私は黙ってとなりに座った。 「明日が卒業式なの。高校へ行ったら、ここにはあまり来れなくなるなぁ」  私は空を見上げながら少年に話しかけた。 「なんか、寂しくなるね」  少年も空を見上げながら呟いた。 「でも、いつでもここに遊びにきてね。僕はずっとここにいるから」 「うん」 「僕はここの……桑畑の神様だから」  私は目を丸くして少年を見つめた。少年はフフッと笑った。 「そんなにびっくりしなくてもいいでしょ」  少年は空を見つめたままだった。私は再び空を見つめた。今日の空も飛行機雲が見えた。少年はまた口を開いた。 「僕はアゲハチョウになりたい」  アゲハチョウ? 今度は私が笑う番だった。 「神様なのに?」 「神様でも夢を持っていいでしょ」 「アゲハチョウになれるの?」 「うん。きっと信じていればね。あのきれいな羽で、この素敵な空の中を飛びたい。ずっと前からそう思っていたんだ」 「素敵な夢ね。でも、この桑畑はどうなるの?」 「いつか僕のような神様が必要なくなるさ。人間が僕らを愛し続ければね」 「私はずーっとあなたたちを愛し続けているわ」 「ありがとう……」  気がついたら、私のとなりにいた少年は姿を消していた。  私は高校に行った後でも、たまに桑畑の道に寄った。しかし、私以外の人間が桑畑を愛することはなかった。  桑畑がなくなったのは、私が大学受験の真っ最中のときだった。やっと大学が決まって桑畑を見に行ったときは、桑の木が全部根こそぎ抜き取られ、跡形もなく消えていた。私が行き続けた桑畑の道は、アスファルトできれいに舗装された立派な道に変わっていった。桑畑だったところは、新しく住宅地に生まれ変わるらしい。唖然として立ちすくんでいた私に、通りすがりのおじさんが話してくれた。 「桑畑の神様はいなくなってしまったのかな?」 私はとても悲しくなった。気がついたら一人で涙をこぼしていた。そのとき、涙で歪んだ私の視界に、一羽の小さなアゲハチョウがひらひらと舞っているのが見えた。 「あなた、もしかして……」  私は震えながら、右手の人差し指をピンと立てて上に挙げた。アゲハチョウは私の人差し指の上に丁寧に着地した。 「やっぱり、アゲハチョウになったのね」  私がいうと、アゲハチョウは羽を広げ、遠くの空へと飛んでいった。私はアゲハチョウを見えなくなるまで、ずーっと、見続けた。アゲハチョウの飛んでいった先には、一筋の飛行機雲がアゲハチョウを迎えるように浮かんでいた。