刻限

 全ての大地と全ての空と全ての命を創られた、万物の創造主である我らが偉大な神は、幾度も世界を創っては壊され、また創っては壊された。その繰り返しの中、とうとう偉大な神は一つの世界をお気に召され、その世界を眺めることに喜びを見出された。  やがて偉大な神は世界を眺める自身があまりにも無防備であることに気付かれ、自らの身体を守らせるべく光の塊を造り出され、命を与えられた。それは後に、偉大なる神の意に反して貪欲を覚えた人間が、天使と呼ぶ存在であった。  静かに立ち上る紫煙を眺めながら、膝の上の本に目を落とす。日付が変わってから大分時が過ぎた夜中であるにも関わらず、ベッドの上で煙草を吹かしていると眠気など欠片も感じられない。そうしていつもの如くくつろいでいると、扉が開閉を告げる音を立てた。  煙草を口から放して顔を上げると、バスローブに身を包んだ女が入ってきた。 「煙草、止めて」  入ってくるなり彼女は言う。 「前は良いって言っただろ」  以前の彼女の言葉を持ち出して抗議するが、彼女は事も無げに言ってのけた。 「社交辞令だもの」  何処でそんな事を覚えてきたのか。 「そんな社交辞令なら要らないな」  ぼやいて見せるも彼女は依然として無表情。  手元の本には栞も挟まなければ、閉じもせずに煙草を灰皿に押し付けた。火をもみ消すとほぼ同時に、再び煙が欲しくなった。  音も立てずに窓辺へと歩を進める彼女を上目遣いに追って、ふと感じたどうしようもない違和感。純白な筈のバスローブの、僅かな凹凸が見せる純白とは程遠い白さ。 「もう還るのか」  落ち着いた声でそう問えば、彼女の足は止まり、さらりと流れる髪と共に美しい顔がこちらを向く。 「ええ」  濡れたように艶めく髪は、人間とはかけ離れた美しさを宿す。 「そうか」  次の煙草が欲しいのに、手が出ないのは何故なのか。  彼女は静かにベッドに歩み寄り、縁に浅く腰掛けた。その細くて柔い体を包み込むように、後ろから抱きすくめる。 「還るんだな」  もう一度言うと、目の前の小さな頭が微かに前傾した。それは首肯と受け取ることも可能だったが、どちらかと言えば、俯いた、といった感じであった。 「神様も、散々な仕打ちをしてくれるな」  苦々しく呟くと、自らの腕に彼女の指先が這う。 「仕方がないの。私が悪いのよ、偉大なる神を責めないで」  淡々と紡がれた言葉の中に垣間見えた、水面のような冷ややかさと戸惑いにも似た温かさ。  静かに吐いた溜息さえも、神様とやらへの憎しみに変わる。 「お前は悪くない。要は、神様の所有物である筈の天使をかどわかした男が悪い、と。そういうことなんだろ」  純粋でなければならなかったものを、穢した罪だとでもいうのだろう。  緩やかに波打った艶やかな黒髪を撫でると、再び落ち着いた声が聞こえてきた。 「いいえ。偉大なる神にのみ仕えるべきであった私が、神でない存在に心を寄せてしまった事がいけないの」  敵は偉大なる神様だと言われても、立ち向かうだけの覚悟は有ったというのに。 「ごめんなさい」  彼女は唐突に謝った。何の感情も含まれていないようで、だがしかし微かに漂う罪悪感。 「何が」  彼女が何に対して謝ったのか。そのようなことは訊かずとも解ることではあったのだけれど。 「ごめんなさい」  ベッドのシーツに皺一つ残さずに、腕を擦り抜けて立ち上がった彼女の、細いシルエットが月光に浮かび上がる。儚くて、余りにも儚くて、今にでも消えてしまいそうな。 「還るんだな」  何度目とも知れぬ、問い掛け。それに対するは、今までとは違った内容の、しかし同じ趣旨の、回答。 「私が帰らなければ、偉大なる神は再び世界を創り直されると仰ったわ」  彼女は暗に唱えているのだ。『貴方の為に帰ります』と。それがとても残酷な選択であると知っていながら、しかし彼女は選んだのだ。 「その神様とやらは、世界を壊さない代わりに、一人の人間に酷い仕打ちをする訳だけどな」  君の居ない世界など。 「我らが偉大な神は、私に帰るよう命じられた」  宣言する少し淋しげな彼女の姿は、まるで神のお告げでも聞いている巫女のようだ。いや、実際に聞いているのかも知れないが。何にせよ、初めて彼女と出会った時から彼女が人間でないということくらいは気付いていて、それでも尚近付いたのだ。思わず息を呑み、呼吸さえ止まってしまいそうなほどのその美しさと気高さに魅せられて、手放せなくなってしまった。だから悪いのか、この一人の人間が。神様から大切なものを奪おうとした、一人の男が。  立ったままの彼女の腕を掴み、引き寄せる。不変の筈の表情は静かに見下ろす。神に反した、傲慢な人間の男を見下ろしている。  サイドテーブルの小さな引き出しを開け、短剣を取り出した。金属の擦れる音と共に鞘から引き抜き、そっと自分の掌に当てる。そして、親指の付け根に沿って滑らせた。  始めは噴出すように、次第に溢れ出す様に輝き出した緋色が、月光には黒ずんだ紅色に変貌する。剣を脇に置いた手で、自らの血液を掬い取った。自身から溢れ出た、体液。 「帰るわ」  無情な声。否、無情でなければならなかった声。 「わかってる」  呟いた彼女の唇を塞ぐ様に、指先に付着した血液をその唇に乗せた。同じ指ですっと伸ばすと、さながら紅を差した女の唇のように、妖艶な美しさを見せた。 「不浄なものには」 「不浄だと言うのか」  言い掛けた彼女に、仕舞いまでは言わせない。  ほんの一瞬、戸惑った彼女は静かに己の唇に指を這わせ、そのか細い指先に付着した色を確認しているようだった。  暫しの間指先を眺めていた彼女は、そっと脇に放置されていた短剣を手にとって、自らの髪にあてがった。そうして、一本、切られた髪は滑らかに輝いている。彼女はそれを、出血している手の手首に巻きつけた。割れ物を扱うかの如く、とても慎重に、端と端とを結び合わせる。しっかりと手首に縛られた彼女の髪を見詰めていると、彼女はそっと口を開いた。 「朽ちるまで、外さないで」  流れるような動きで背を向けたと思った次の瞬間には、彼女の、否、気高き天使の姿は何処にもなくなっていた。  美と純粋を誇る気高き天使を従えた神様は、世界を壊さぬ代わりに一人の男から大切なものを奪っていった。  心地の悪い余韻を消そうとシガレットケースに伸びた手が、ぴたりと止まる。前回の煙が美味かったからといって、次の煙も美味いとは限らない。  ふと窓辺で揺れるカーテンと、枕元に置き捨てられた本が視界に入って初めて気付く。彼女が、彼女の光があまりにも強すぎて気が付けなかったのだ。  世界がこんなにも暗かったなんて。  全ての大地と全ての空と全ての命を創られた、万物の創造主である我らが偉大なる神は考えられた。世界を創り直すのも、また一興。  しかし偉大なる神の意に反して貪欲を覚えた人間が天使と呼んだ存在は、偉大なる神に造られてから初めて偉大なる神に異論を唱えた。百年後まで、延ばしてはいただけませんでしょうか。  偉大なる神は天使を赦し、その言葉を聞き入れられた。  偉大なる神は興味を持たれてはいなかったが、偉大なる神に造られた天使は知っていた。今生きている人間が死に絶えるのが百年後であるのだということを。  愛した人間が朽ちるまで、百年も掛からないのだということを。