神戸さん

 僕の街には山がない。きっと僕もこの景色のような起伏の無い人生を送るのだろうと思っていた。  学校の屋上。階段を降りていく同級生達。彼らにボロボロにされた僕の顔と、服。いつからだろうか、屋上に呼び出されては意味もなくからかわれ、最終的には身体でアイツらの拳や靴を受け止めるのが当たり前のように思えてきた。 「いやー、今日も見事ないじめられっぷりだったねぇ」  急にそんな声が聞こえてきた。貯水タンクの上から声をかけてくるような知り合いは一人くらいしかいない。 「まさに青春って感じだね。うんうん、若いなぁ」  そんな事言ってるけど一応君も同じクラスだからね。 「別に僕は青春を謳歌したくてこんな傷だらけになってるわけじゃないからね?」  学校の中で一番高い建物の上で仁王立ちしながら満足そうに頷いている神戸さんは、かなり変わってる事で有名だった。  前に、牛乳事件っていうのがあった。何でかは知らないけど、神戸さんが自販機で売っていた紙パックの牛乳を同じクラスの女子に思いっきり投げつけたんだ。元々少し浮いていた存在だった彼女だったけど、それ以来完全に女子たちからシカトされている。まぁ、当の本人は全く気にしてなかったんだけど。 「――神戸さんもそんなところに立って……ドラマの観すぎじゃない?」  わざわざ屋上まで上がって、さらに2メートルはあるハシゴを登ってるんだから、まぁ神戸さんらしいといえば神戸さんらしいんだけどね。でもそんなところでスカートのまま足を広げて立ってるもんだから、見上げる側からすれば少し目のやりどころに困るというかなんというか。 「おー、なかなか言うねぇ。なんならアタシが修行付き合ってあげようか?古来より最強と呼ばれるこの少林寺拳法で」 「……あんな奴ら、三流だよ。こんなに顔も傷だらけにしてさ、服も靴の跡ついてるし」  正直羨ましいとも思っていた。彼女は強い。独りでもそんな事も気にせず生けていけるようにも思える。僕は、そんな神戸さんに一種の負い目みたいなものを感じていた。 「僕ならもっとバレないようにするけど。馬鹿だからね、アイツら」  馬鹿みたいだと自分でもわかってる。僕はそんな事をしようとも思わない。しようとしても腕力も勇気もない。だからこんなことになってるんだろうけど。 「ふーん……。ねぇ、今日さ。何か予定ある?」  予定なんて何も無い。今日だって、こんなにも早く解放されるとは思ってもいないくらいだったんだから。アイツらの気が済まないと、その後の予定も何もなくなるんだから 「じゃあさ、ちょっと面白いことしてみない?一人で暗ーく本読んだりするより、もっと面白いかもよ?」  そう言われて連れてこられた場所は……廃工場、の倉庫? 「んー、いいねぇー。今日もいい感じにハイキョってるねっ」  一人でいやにハイテンションになってる神戸さん。大量に並べられている錆だらけの鉄柱で平均台みたいにバランスをとりながら行ったり来たりして……なんだかとても一人の世界って気がする。 「なんでまたこんな場所に……?ここで一体何を?」 「アタシなんでか知らないけどこの場所が好きでさぁ。しょっちゅう一人で来てボーッとしてるんだよね。んで、誰かにそれ見られたんだね。如何わしいことしてるとか、こんなところで寝泊りしてるとか色々アホなこと言われてるけどさ」  あぁ、それが牛乳事件の真相か。目の前で噂されて小馬鹿にされて、その女子を牛乳まみれにしたって事か。なんというかやっぱり――神戸さんらしいや。 「周りがなんと言おうと、私はただここが好きなだけなんだよね」  多分、落ち着けるのかな。イマイチ理解できないけど、神戸さんの言いたいことはなんとなく分かる気がする。 「それでさ!今からアタシ軽くポーズとるから、その様を思うままに激写しちゃってくんない?」  きっと神戸さんは、それを共感して欲しくて僕をここに呼んだん……。へ?激写……? 「え、えーっと……神戸さん?」 「アタシさ、学校辞めるんだよね。もーあんなアホアホな空間うんざりですわ。だからもー開き直って、オメーらの言ってるとおりじゃ文句あんのかボケ!ってキャプション付けて校門に大々的に貼りつけてやるんのさっ!」  そうか。神戸さんは確かに強い人だ。でも、強いからって辛くないわけじゃないんだ。神戸さんは強くなきゃいられなかったんだ。自分が弱いからと言い訳するだけで結局何もしない僕とは全然違って……。 「もーこれはテロだね!ゲージュツ的ニューピクチャテロリズム!」  ちが、って……るんだよね?あれ?えっと……、もしかしてこの人、実はものすごくバカなんじゃ……。 「ほらほら!ぼーっとしてないで!早速いくよー、はいシャッターチャンス!」  そう言っておもむろに僕に目線を送りながらポーズを決める神戸さん。えっと……、僕は何をすれば……? 「…………」 「…………」  3秒くらい沈黙が続いた。それを破るのはもちろん神戸さんだった。 「……撮った?」 「えあ?いや……」 「なんでよー!今のパッション!怒りとエロス!それを余すとこなくゲキシャするのが君の役目でしょ?」  今のって撮るシーンだったの?っていうかカメラは?なんで神戸さんは持ってないのさ!僕だって常日頃からカメラ持ち歩くような趣味は持ち合わせてないからね!  そう言うと神戸さんは「そっかぁ、カメラは忘れてたなぁ」と言いながら床に座り込んでしまった。 「ま、これはアタシなりのフクシューだからね。……アタシ、アメリカ行くんだ。キッド・マッコイに弟子入りする。そんで逆輸入で暗黒舞踏の女帝に……」 「あのさ――」  あぁ、そうか、やっとわかった―― 「――僕もアメリカに行くよ」 ――僕は神戸さんがずっと好きだったんだな。 「西海岸を牛耳る麻薬王になるんだ。そして神戸さんのパトロンになるよ。いつでも後ろからサポートしてあげるんだ」  言葉が溢れ出してくる。溢れ出てくるのは言葉だけじゃなくて、何かが頬を伝った気がした。 「……バカだねぇ。もしかしてキミ、泣いてる?」  僕は馬鹿だ。でも、馬鹿だからこんな事を言ってやれるんだ。僕が彼女にしてあげられることなんてそれくらいしか思いつかないから……。  気がつくと僕は神戸さんと一緒に帰路についていた。その途中で、神戸さんはアメリカでの計画について色々話してくれた。まるで現実味のない話に「タランティーノみたいだね」と行ったら「誰それ?」って笑った。  別れ際に一度だけキスしてくれた。  でも、次の日から――神戸さんはもう学校に来なくなった。  いつもの屋上、いつもの面子、いつもと同じ状況。普段ならコイツラの気が済むまで殴られているんだろう。ただ、今までと違うことがあるとすれば、僕が手にナイフを構えていること、だろうか。 「僕にもう構うな。次はお前らを殺して、僕も死ぬ」  もう逃げてばかりでいるわけにはいかない。神戸さんがそうしていたように、僕だって前に進まなくちゃいけないんだ。  幸いというべきか、彼らは嫌な汗をかきながらもう何もしない事を約束してくれるようだ。 「それとさ――、タバコ一本くれる?」  屋上に誰もいなくなったのを確認してから、一つの覚悟と共に、さっき貰ったタバコに火をつける。 「もう一回、したかったな……ゲホ!ゲホっ!」  それから行方の分からなくなった神戸さんの名前が、ゴールデングローブ賞映画部門の助演女優賞受賞者に記されるようになったのが知らされたのは、十年後の事だった。