絢爛たるホ短調

 線路を走る列車。  対面式の座席。  人の気配はない。  その中で自分は窓枠に頬杖をついたまま、通り過ぎていく景色を眺めている。どこにでもあるような田園風景。特に感情を抱くでもなく、それらの変化を何となく観察していた。一人旅といえば聞こえはいいが、あいにくそんなことでここにいる訳ではない。  空は花曇りだ。  傍らに置いてある黒革のケースをそっと撫でた。長い間親しんできた感触がてのひらを伝わる。荷物はこれと、必要最低限のものが入ったリュックサックだけだ。これから行く場所を思えば、これだけの荷物でいいのか少し不安になる。  そんな不安を少しでも和らげるかのように電車は揺れる。でも、自分は背もたれから身体を離している。おそらくこの席に座った時から背はつけてないだろう。  たった一人の客を乗せた列車にアナウンスが流れる。それは次の駅が終点であることを告げるものだった。  無人駅から一歩踏み出した途端、体を包み込んだのは懐かしい空気のにおいだった。故郷というものにいい思い出がある人ならば、この瞬間深い感慨でも抱くのではないだろうか。  この時期はちょうど稲を植える時期らしく、辺りのたんぼは茶色と緑の斑模様を作り上げている。森の木々も若々しい葉っぱをその枝につけている頃だ。  かつての家へと帰る道を行きながら、辺りを眺め歩いた。見えた人影は農作業をしているお年寄りだけだ。  本当に、何も変わっていない……。  この田園も、背後に見える山も、頭上に広がる空も、何一つ変わっていない。まるで、この村を飛び出して外を旅した自分だけに時間が流れ、この村はその間時間を止めていたかのようだ。  なるべく人の目を避けようとして、自然と歩調が早くなった。出来ることなら今すぐあの電車に乗って帰りたい。でもそんなわけにはいかない。  こんな葛藤を繰り広げているのだが、そんなことは露知らず、誰かがすっとんきょな声をあげた。 「あれ?ジュンちゃんじゃないかえ?どうしたんね?」  声がしたほうを見れば、一人のおばあさんが農作業の手をとめてこっちを見ている。確か自分が小学生の時、よくお菓子を半ば強引にくれた人だ。無視したかったが、知り合いであるということもあって、さすがにそれは出来なかった。 「事情があっていったん戻ってきたんです。」 「そうなん、そうなん。それにしてもずいぶん変わったなあ。髪も茶色くなっとるやない。背も大きくなっとるし。トカイに出りゃあみんなこんな風になるのかえ?」 「髪は自分で染めたんです。背はここを出た時とあまり変わっていませんよ。」 「へぇ!自分で染めたんかい!それはすごいなあ。そんなことまで出来るようなったんか。まあ、子供ん時からジュンちゃんは出来る子やったからねえ。」 「はあ、そうですか。」  それからおばあさんは子供の時の話を持ち出し、長話を始めようとした。  そこまで急いでいる訳ではなかったが、自分はおばあさんの長話に耐えられるほど心の広い人間ではなかったから、丁寧に断ってその場を去った。  どうにも、自分は聞き上手になれないのだ。  それは子供の時から自覚していたが、この歳になってもなかなか直らない。  笑顔で見送ってくれたが、最後はどこか寂しそうな顔をしていた。それが少し気になったが、数歩歩くと忘れてしまった。  長い帰路もようやく目的地が見えてきた。かつて暮らしていた家は住宅地からは少し離れている。おかげで駅から徒歩で四十分もかかってしまった。苦ではなかったが、手に提げた荷物の重みに肩がすっかり強張ってしまった。  コリをほぐそうと肩を軽く動かしてみた。しかし、その動作すら緊張を和らげるためにしているようで……。そこでふと、自分が笑っていることに気づいた。やはり、特に幸せだった記憶がなくても生まれ育った家に帰るというのは、嬉しいものなのだろう。あまりその事実は肯定したくないが。  さあ、この道を登れば目的地だ。  門を開けたところで出迎えたのは母だった。相も変わらぬ着物姿である。そこには久しぶりの子供を迎えた喜びを示す表情はなく、言い分けを聞かぬ子をしつけるような厳しい表情をうかべていた。 「お入りなさい。お父様が既にお待ちです。」 そういうなり屋敷の方へ歩きはじめた。  その後を自分は悟られないように薄くため息をついて歩き出した。 「お父様、ジュンを連れてきました。」 「通しなさい」 「はい…」  ふすまを開けた先、座布団の上で正座して待っていたのは声の通り、父だった。出ていったときとさほど変わっているように見えないが、髪の大半が白に変わっていた。 「そこに座りなさい。お前は下がってよい。」 「わかりました。」  母はそのまま出ていった。私は無言のまま父の前に用意されていた座布団に座る。荷物はすべて私の部屋に置いてきた。  あの黒革のケースも……。  私が座っても父はしばらく沈黙したままだった。もちろん自分から話しだすようなことはしない。その時を外から響いてくる鳥の声に耳を傾けながら待った。  ほきょほきょほきょ――  言葉にしたらそんな感じの鳴き声が間をおいて数度と繰り返された。 「…この家に戻るつもりはないのか?」  唐突に父はそう切り出した。まさかいきなり聞かれるとは思っていなかったので、戸惑ってしまった。でも返す答えはただ一つだけ。 「そのつもりはありません。」 「今ならお前を許してやってもよい。おとなしく家を継ぐのだ。」 「何度言われても同じことです。もう自分で定めた道を行くと決めたのです。」 「お前の定めた道など一瞬の気の迷いに過ぎない。くだらぬ道楽はやめるんだ。そんな道に入ってもどうせのたれ死ぬだけだぞ。」 「一瞬の気の迷いでもないし、道楽でもありません!ちゃんとした仕事だし、私は誇りと覚悟を持って臨んでいます。」 「音楽というものなど、しっかりした仕事のうちに入らん。今はなんとか食べていけたとしても、そのうちすぐどこからも相手にされなくなる。お前は現実を見なすぎだ!」 「覚悟はしていると言ったでしょう!そういうことは百も承知でこの道を選んだんです!」 「お前の覚悟など認めん。そんなのたかが知れている!」 「私は今まで必死に努力してきました。この十年間数多くの経験を積んできたのです。進んでいる道がどれほど険しく危険なものなのか、諭されなくても十分理解しているつもりです。今更お父さんにとやかく言われても私は変わりません!」  全ての音が無くなった。  父の顔は部屋に入った時よりも一層険しくなっている。耳が熱い。 「……わかった。」  その時、父に許されたのかと思った。いや、期待した。 「この家から今すぐ出ていけ。もうお前は私の子ではない。」  そう言って目をつぶった。  その態度があまりにも決然としていて、一瞬頭の先まで血が上った。でもその一線を踏みとどまり、無言のまま立ち上がった。最後に声をかけるべきか迷ったが結局はそのまま部屋を出た。  今私は舞台袖で演奏会の開始を待っている。  そんな緊張している瞬間なのに昔の出来事を思い出すとは…。せっかくの気分が台無しになってしまった。  ヴーーーーーー  開始の合図が鳴る。改めて気を引き締め、望んでいた光の中へと一歩を踏み出した。  ステージ中央へと進み一礼。鳴り響く拍手。それが収まった後、ヴァイオリンを肩まで上げ弓を構えた。  自分の背後に陣取るオーケストラが厳かな音色を響かせだす。それに続いて音を響かせる。華麗に、しかし悲しげに。心に思い浮かぶ感情を聴衆に伝えるため、弓を操る。  三十分にもわたる戦いは幕を閉じた。全体としては上出来といったところだろうか。目立ったミスはしなかったが、それでも思い残すところはいくらでもある。  こう思っていても、楽員たちはよくやったと称賛してくれた。指揮者も舞台上で目があった時、かすかにほほ笑んでくれたように思う。  だがそんなことは今やどうでもよくなっていた。  最後、演奏終了の礼をしているときにある人物が視界に入ったからである。座席中央よりもやや右下に位置するところ。  そこに父が座っていた。  初めは目の錯覚かと思った。しかし再び見やると確かにその人がいた。しかも拍手をしているではないか。  それからというもの他からの称賛などどうでもよくなってしまったのである。  迂闊にも舞台上で泣きそうになり、慌ててうるむ目をニ階の座席へと向けた。  あの時から一度も両親と会っていない。それでもこの時自分の心は救われたのだと思う。  わかってくれない両親を一時は憎みさえしたが、今では感謝している。父が反対してくれなければ、自分は中途半端のまま終わっていただろう。結局のところ何が災いするかわからないのだ。  たとえ今は父と会えることができなくても、いつか笑って話せるようになったらと、私は願わずにいられない。